確かさ


学生時代に初めて「雨引の里と彫刻」を訪れた時には、いずれ自分
が参加することになるとは思ってもみなかった。それが作家とし
て駆け出しの頃にメンバーとなり、今回で早くも4回目の出品とな
る。
 作家による自主運営を公然とするこの展覧会の舞台裏は、初参
加当時の私にとって尋常なものではなかった。月一回の会議で繰
り広げられる喧々諤々の真剣なやりとりには、格別の緊張感が
あった。展覧会開催に関わる全ての物事に向き合い、起こる事態に
処していく。解決の道筋に予定調和は持ち込まず、面倒を承知で一
から全員で話し合う。その過程で露わになるそれぞれの作家の気
質。発せられた言葉の全てが、そのまま自分に返ってくるような抜
き差しならない時間。私は渦中にいながらも、そこに社会の縮図を
見る思いでいた。
 そうした縮図は、作家各々の人生の歩みや社会との関連の中で
徐々に有り様を変えて行く。「雨引の里と彫刻」も時の流れと共に、
真っ当に変化を遂げて来た。しかし、人ごとではない。ふと自身を
顧みればこの縮図の一員である自分の内部に、さらに縮図がある
ことに気付かされる。十人十色の作家達を鏡に、否応なく多様な自
己が照らし出される。
 社会は分業。人は各々の専門を引き受け、その他を人に委ねるこ
とで初めて限られた時間で何事かを成し遂げることができる。展
覧会も同様だ。作家と表現に携わるいくつかの職種が役割を分担
して効果的に仕立れば足りる。
 しかし、「雨引の里と彫刻」はそれをしない。おそらく、作品制作
以外の苦労を忘れて常態とするうちに、作り手として失うべきで
はない何かを取りこぼす可能性を、鋭敏に察知しているからだろ
う。大変な労力をかけて自覚し続けていることはいったい何か。そ
れは、分業以降の歴史の中で自明となった「美術」という枠組みに
は求めにくい手応えのようなもの、言葉にするのは難しいが敢え
て言えば「確かさ」なのかもしれない。
 ひるがえって歴史を眺めれば、これまで多様に展開してきた表
現はそれぞれの「確かさ」と共に成し遂げられてきたとも言える。
自明性への問いを掲げたり、枠組みの先端で斬新を狙う際にもそ
れは伴っただろう。これに対して「雨引の里と彫刻」は、風景の中に
作品を置いて人に観せるという極めてシンプルな行いに専心する
だけだ。だが、その過程で意義と責任の両方を受け取りながら、結
果的に枠組み自体の形成過程を辿るような仕方で、表現における
「確かさ」を獲得していく。
 ルートを巡り全ての作品を観る。作品は作家、観者、地域、そして
社会をお互いに照射させ合う。その錯綜する反射がまた私の内部
の縮図と反射する。私は内と外との変化の一時的な事情として佇
んでいる。一方、作品はそんな生身の人間の機微とは無縁であるか
のように、里山の暮らしの中に当たり前に存在する。それは「確か
さ」を伴って観た人の記憶に残るのではないだろうか。そして、時
を経る中で想起される度に解釈を更新させるに違いない。作品は
思い返され、更新された分だけ作家に、ひいては観者へ新たなヴィ
ジョンを与える。次の一歩を促しながら。

  
参加作家 塩谷 良太