第4回 雨引の里と彫刻に参加した各作家の作品に対する思いや、制作に関して日頃考えている事、 雨引の里と彫刻に参加して感じた事など、それぞれの気持ちを綴った作家の一言です。

グループ・等(RA)
地球は唯一水をたたえた惑星と言われています。生命の源である「水」をテーマに、二つの作品を制作しました。
光る川;桜川を美しく、水を大切に、と云うテーマの作品で桜川に関わる全ての生き物が、輝いていてほしいと願い制作した。 水の塔;1000本を越えるペットボトルで、約5mの「水の塔」を創り、天と地をつなぐ、大きな水の循環を表現します。

望月久也
全きものは物語を生まない。私の制作は核心へと辿り得ず、ただ境界を彷徨するのみ。完全は幸せではない。彼の国の歌に曰く、 「答えは風に吹かれている」と。

山崎隆
自然物である石は、一つとして同じものが無い。自明のことではあるが、テクノロジーの魔法にかかると、そんなこともぼやけてくる。見えなくなる。知らず知らずのうちに感性は均質化され、何かを取り戻そうとするが見つからない。この作品の設置場所は以前、山火事がおこったところ。今林が新たに少しづつ再生し始めている。ここに彫刻を置く。

島田忠幸
白山神社参道の脇にある車2台が気になって仕方ない。何か因縁が有りそうだ。ガラスが割れ錆び付いた乗用車と、いつでも走れるような赤い軽乗用車が奉納されているように見える。それにしても気になる。気になるので隠し秘密にすることにした。隠せば隠すほどなにか見えてくるものがありそうだ。

槇 渉
私はある日ここに置かれた。木々の中、場違いだと思いながら風に揺らぐ太い幹、枝葉を通して差し込む光を浴びても表情をかえない,いしなのである。そして思う、私も木々や動物、そのほか多くの仲間とシンフォニーを楽しむ予感だけはする。

金沢健一
昨年の夏の午後、この竹林を発見したときの驚きは今も忘れない。竹林は奥が深く、作り出される空気は濃密であったけれど凛として畏敬の念を抱かせた。この竹林に3本の鉄の角管で構成された柱状の形態を9基たてる。竹林の作り出す時空間に僕の造形と素材である鉄の意志を挿入する。

サトル・タカダ
自然空間の中における彫刻の有り様としてこの展示はある意味において実験の場であり修練の場である。私の彫刻は自然の畏怖を精神的支柱として空間の緊張と時間の停止した瞬間の力学的構造の美にもとづいている。この橋は地軸の見えない方向を指針するものでなぜ川にあるのかは水の流れに人生をうつす心の橋の持つ彼岸への憧れ等の認識も含めこの作品の背景も担っている。

藤倉久美子
今回は見て下さる方々に、ほっとしていただけるような作品になれば・・・と思い制作致しました。十年ほど前のある一家族をイメージして出来た作品です。
芸術はもともとは遊び心から始まったもの、原点にもどりたいと思っています。

水上嘉久
石屋さんの跡地をお借りし、建物の基礎部分をキャンバスに見立てて、私なりの自然観を表現してみました。それは、場所との融合というよりも、むしろ対比させたことによって、私と美術との関係を探る極めて私的な試みです。

松田文平
白御影石に本来は割るための穴を穿ち苔を植えました。苔は夜露を栄養として生育しています。平たく敷かれたブロック状の石は水の粒である夜露を表現しています。形があるものは目に見えるもので、形のないものは目に見えないもの、そのどちらにも属さないものの象徴として夜露をテーマにしました。

戸田裕介
この里に降る雨は、家々の屋根を濡らし田を潤して、霞ヶ浦へ鹿島灘へ、そして大平洋へと流れて行く。一部は空へ戻り、一部は作物の中に取り込まれて、人の中に取り込まれて日本各地へと拡がって行く。この里を渡る風は、何処から来て何処へ行くのだろうか。今吹いている風は、人々の中に子供たちの中に取り込まれて、日本中に、世界中にそして未来へと吹いて行くのかも知れない。

村井進吾
緩やかな起伏の農地に囲まれた日当たりのよい場所にある墓所に隣接する小さな森は、作品を持ち込むには少し面倒な気もしたが惹かれる気持ちが強くこの場所を選んだ。
[作法]とはその物のあるべき姿であり、私自信の有り様である。

藤本均定成
昨年より、伊沢正名さん撮影のカビ、キノコ、コケの写真をどのように、かつ楽しく見ていただくことのできる装置をつくり、小学校、菌の研究会、美術展、博物館等で発表しています。今回は井沢さんが6ヶ月間現場に通い撮影したコケ、キノコの写真を雨引の方々、そして“雨引の里と彫刻”展を訪れる方々にも、どのように見ていただけるか楽しみにしています。

廣瀬光
以前、設置場所を探しにこの雑木の林を訪れたとき、林はもっと重く体にまとわりつくくらい密度がありました。冬を過ぎ下草を刈られた林は、奥にまつられた祠も容易に見渡せるほど軽くなり、経過した時間をはかることが出来ます。作られた作品もまた同じようにその内部に過ぎて行った時間の長さをためています。重さとはまた別の質量がそこにはあるのだと思います。

宮沢泉
お忙しいところ雨引の里と彫刻展にお越し頂き有り難うございます。言葉にならない心の状態がありますが、一方で心にならない言葉というものもあるのでしょうか。とウランバートルの草原の羊がメコンデルタの水鳥に訊ねました。返事はただ鳴き声にしか聞こえませんでした。この辺りが月明かりに照らされる頃、彼の地は朝日の光彩のなかにあります。

佐藤晃
ある空間に対して彫刻を考えるとき、その大きさの決定は重要な要素となる。物量として想定した石のかたまりは思いのほか充足し、強烈な存在感で周囲を圧迫する。その中身を削り、えぐりとって行くことで最初の圧力は減少され、存在は次第に周囲の空気と拮抗しはじめる。枠状に残った石が自然の振幅の中で、空や廻りの緑に対して揺れ動く様に立ちあがってほしい。

中井川由季
麦畑の中、祠とそれを守るように木々が繁る。傍らに置く作品に「空の音を聞く」と名付けた。波のようにうねりながら広がる畑と森、起伏に沿って細い道が繋がっている。空が高い。その場所に立つと、世界の片隅でしかない小さな領域が、まるですべての中心であるかのようだ。僅かな変化まで察知できるような気がする。

芝田次男
石と石とを積み重ねることで、できてくる形の中に、植物的な要素が入ってきました。たとえば、ニョキッ。とのびた茎があるとして、その茎の中から新しい芽が、規則的に、しかも意外な形をして芽吹く様は、不思議としか言えません。

海崎三郎
鉄の重さと大きさに、そばにいるだけで疲れを感じた。仕事が進むにつれて暴力的な恐さにも似た鉄の一面を見た。その理屈を探りなだめて行くことは、不思議にも楽しく心が高ぶる。無くなることと残ること、裏側と表側、見せることと隠すこと、そんなうらはらな言葉が熱によって一つになっていく。

井上雅之
本来、人は景観などを意識することなく営みを続けてきたはずです。しかし人々の営みの合理性、無駄なく能率的で道理にかなった行いが、収まり整った風景の外観を形作ってきました。これが心地良い眺めの由来です。美しい農地、農産物製造地は、それぞれ役割を担う事物の集合体であると言えます。その中に役目を持たない異物を置いてみたいと考えました。

山添潤
石をハダカにしてしまおう。わくわくしながら一枚一枚脱がすもよし。勢いで一気に全部脱がすもよし。恥ずかしがる石もあれば、自分から脱ぎそうな石もある。やり方によってはがっかりしたり、゛おっ゛ということもある。いずれにしても、口説くことからはじまります。

安田正子
木漏れ日の差し込む小さな林を見つけました。手持ちの板材を組み合わせて、循環する水のイメージを考えてみました。いつもの形を離れての制作は設置の時まで続き、今でもこの場とどうかかわりたいのか自問自答しています。

岡本敦生
環境の中で目立たないこと、風景の中に取り込まれて見えなくなる様なもの、本来なら際立った存在感を持って自己主張するはずのモノが、表装の曖昧さの陰で、環境の色に染まり風景の中に溶けて行く。見る意思を持たないと見付けにくいんですが、見えて来ると不可解なもの、そんなものに興味を持っています。

中村義孝
自分の手で原形を鋳造するようになってから25年ほどたちますが、いまだに失敗を繰り返しています。しかし、そのおかげで新しい造形の芽を見つけることもあり、毎回新鮮な驚きを持って制作をしています。今回展示した作品は、近年ずっと追い続けているテーマで、人間の体に機械のイメージを与え造形したものです。

國安孝昌
村を巡ると稲作の雨引の里では、水そのものが生命を紡ぐ賜物であると気づく。私は筑波山を背景にした用水池を見た瞬間、睡蓮が咲くように、ここに作品を浮かべてみたいと思った。睡蓮が象徴する眼には見えない彼岸と此岸の宇宙を、作品を憑代(よりしろ)として、雨引の風景にすることで、この眼に見たいと考えた。

横山飛鳥
日常のふとした瞬間に、空間にみたされている光の存在にあらためて気づくことがあります。光は何かにあたることによって認識されますが、光源からその「何か」までの間に確かに存在しているはずの光を、手にとるように見たいのです。昼はふりそそぐ自然光を集め、暗くなると微かに光を放つ・・・光の体験をするための装置です。

渡辺尋志
雑木林は、日本人が自然と共生してきた一つの証であり、近年注目されているエコロジーの代表的なものです。この二次林は、人の手が加わらないとそこで荒れ果てて、最後には消滅するのです。雨引には未だよく手入れされている林が多く、自然を理解し共に生きている人々が沢山いるのでしょう。その中に、作品を置くとき何の形が一番邪魔にならないか考えて制作してみました。

山上れい
真鍮の線、面の組み合わせによって新しい空間を創出したいと考えています。初めて大和村を訪れたとき、美しくきらめく空気・光・風を感じました。柔らかな陽光の差し込む木立の中で、そのきらめきを表現したいと思っています。

志賀政夫
雨引の里高久神社の境内に、そっとふく風。かつての栄華の痕跡を残して、今、静かに眠り続ける。それは、あたかも記憶の途中のような、優しい風。時には、激しい怒りの風。涙ぐむ風。そしてほほえむ風。昔の風の色が微かに見える。風の色は記憶の途中。

田中毅
人は、いろいろ自分に、何かしら行を課していることがある。インドの行者とか、僧侶などは有名だが、酒断ちとか、たばこをやめたりするのも一種の行なのかも知れない。子供の頃、家の前でお経を称えたり、近ごろでは、駅前などでの立行とか、そんな人のイメージを、形にしてみた。

鈴木典生
天地の恵みによりつくられた場所、豊かな土壌に身を置いた。自己の体を基準として石により構成したこの作品は、地表からやや浮き覆っている形態をなしている。物質的要件を適えることによって、以前には存在しなかった「場」を獲得し、それはひとつの「風景」となるであろう。

菅原二郎
大きな石を8つに割った場合を想像すると、その原石の中に今まで存在していなかった面の構成ができる。それは想像上では存在するが具体的には見ることができない。そんな形に厚みを加え一つの原石から彫り出してみた。それに加えてその面にいくつか穴をあけたらどうなるだろうか、というのが今回の作品です。

古川潤
じっと一つのことを考えつづけると、ふとした瞬間からそれまで思っていたことが急につまらなく感じられてしまう時がある。きっかけはどうであれ、心が軽くなるというか楽になるというか、逃げかも知れないけれど何かが解ったような気にもなる。
本当は一つのことを考え続けるほどの頭がないのかも知れないし、考えたような気になっているだけなのかも知れないけれど。

田村智義
クワガタの角をテーマに作品を造り始め五年になります。最初の2~3年は、形を追求することに終始していたと思いますが、感情を石に伝えようとすると、形は常に変化し限りがないように思います。現在、情感や気のようなものを石に封じ込めることが出来たら・・・と考えています。

齋藤徹
木立の中、雨を受け陽を浴び、新緑の香を感じ、落葉のお教えを受ける。そして、時と在を内に感ずる為に形として表わしたものを捧げたいと思いました。多極化によって難解な内に、ただよう日々を送る私としては、先への指針の助けになってくれればという思いです。

平井一嘉
子供が豆を持って積み上げようとしています。豆は不定形な丸味があるので積み上げるのが難しいのです。豆は夢、命、それともなんですか?私が居ることあなたが居ること、ここに来て立って、全風景の中に溶け込める喜び、思いが感じられたら私も嬉しいです。

大栗克博
季節的、空間的、精神的な開放感をテーマとしています。大和村の光や風、匂いといったものを取り込めるような形態を考え、生命観が溢れる静かな山里の中で、注ぐ光の角度により、作品がその場にどのような存在感と影響力を示すのかが、今回の最大の関心事です。

村上九十九
作品に使用されている木は大島の百日紅、福島の欅、茨城の椹です。いずれも樹齢数百年の巨木たちで、異なる地にてその仕事を終えた樹木です。これらを木組み、組み立て、木で木が誕生しました。 全部朽ちれば木の高みに帰れるのに、また私は余計なことをしてしまったような気がします。

百瀬博之
マッシュルームの栽培小屋は経済の流れの中で生れ、その終わりと共にその役目を終え、そして朽ちてしまう。消滅するまでの間の一瞬だけ私の作品として呼吸したことがこの小屋の歴史に加わることで私にとって意味が生れる。貝殻はかつてそのうちで生命が存在した栖である長い時間をかけて増殖して、生き続ける間はその証として変化し続ける。作品もまた生命の殻かも知れない。