第5回 雨引の里と彫刻に参加した各作家の作品に対する思いや、制作に関して日頃考えている事、 雨引の里と彫刻に参加して感じた事など、それぞれの気持ちを綴った作家の一言です。

望月久也
月に相対す。何れこの星に繋がれて。

齋藤徹
花崗岩、1360×1850×1050 様々な植生の根元的な活力のひとつを、この場で限定しようと私設フォンターナを置いてみました。それは昨年、ここで、精力的に粘膜のように全てを覆い尽くした葛を見たときに始まりました。

グループ・等(佐治正大及びメンバーズ)
地球のエネルギーが、あるいは地球の息吹が溢れた様な、半球ドームの群落です。ドームは地球エネルギーの集まる処であると同時に、私達の生命エネルギーが再生する処、ドームに寄り添えば心が安らぎ、ほっとして、再び暖かいエネルギーに満たされてゆきます。

中村ミナト
地と水の接するところを選んだ。晴天、曇天、雨天、強風、豪雨と、水面は色々に変化する。そして水際にはエネルギーが凝集し振動する。このエネルギーを証明するものを作った。

島田忠幸
もう一つのアートの切り口として、「核武装した日本--それは、ありそうもない話なのか。それとも近々現実のものになる話なのか」・・・・

宮澤泉
木がそよぐ、石にふれる、電極のプラス、マイナスを確かめ感じ直す。そんな作業をしてみたいと思っている。

芝田次男
集落の中に木造の古い建物を見つけました。その建物が何なのか最初はわかりませんでした。かつて、消防活動のための「機庫」だったようです。役割を終えた建物は不思議な小屋のように見えます。不思議な小屋のある場所には何か目印になるものを作りたいと思いました。目印の材料は「石」です。

山上れい
シンプルな要素で広がりのある空間を作りたいと考え、昨年からリングを基本にした作品を制作しています。初めてこの場所を訪れたとき、幼い頃畑で見上げた青空を思い出し、とても懐かしい気持ちになりました。穏やかに澄んだ空気を大切にし、それと響きあう彫刻を作りたいと思いました。

中井川由季
強烈な日差しが、畑やアスファルトの道路を眩しく照らし、その竹林と小道に黒い影を落としています。そして光は竹林の中にも鋭く差し込み、光と影の強いコントラストが生まれています。コントラストの下に鈍く輝く銀色の作品を横たえて、夏から秋にかけての光の強さと角度のゆくえを追ってみたいと思いました。

岡本敦生
石塚さんの御自宅に展示します。母屋と納屋と倉がありますが、現在は空き家になっています。敷地には雑草が生い茂って、納屋と倉はかなり荒廃しているのですが、その朽ち果てようとする建物の中や敷地全体に、人達が生活していた魂のようなモノを感じます。建物は朽ち果てても、凛として朽ち果てないモノ、そのような何かを三つのUNITの中に吹き込み、空間の中で凛として立ち続けます。

山本糾
垂直と水平が交差するところに時間と空間が生まれ、時間が空間化、空間が時間化することによって事象が発生する。水面に落下する水はそのような宇宙生成のモデルであり、エロティシズムの根源です。宇宙の中心に滝があり、その水は窪まで流れて虚空に落下している。

村井進吾
春には見事に咲いた櫻の大木。少し傾いて立つ木造の小さな薬師堂。遅い夏の前には稲と麦の緑に囲まれて葉桜に覆われていた。他の作家が選択する場所だと思っていたが最後までとり残された。白御影を手掛けることになったのはこの場の持つ力だと思っている。落ち葉と雨の滴の集積はどんな「泉」を創るのだろう。

大槻孝之
今回彫刻展が行われるのは、農道が葉脈のようにはり巡らされた地区だ。道を歩いてみると、林や畑の形をなぞるように有機的な曲線が錯綜し、農業を営みとする静かな生活のにおいがする。作品の発想も、そのような景観 の中から生まれました。あなたも、この風景の中に一日迷い込んでみてはいかがでしょう。

海崎三郎
目にした時は妙に気になるのだが、言葉にならないままに忘れてしまう。そう言う繰り返しが何度かあったように思う。
私にとってH鋼はずっと前から美しいものだった。
最近、そんなことを思い出すように気がついた。
今回の雨引には、秋月の下にもう一つの月をたたずませてみたいと思っている。

渡辺尋志
水には形がない。しかし存在する立体である。基本的には無色透明であり、眼には見えないものなのだが、その存在は判る。実像なのか、虚像なのか、在るのか無いのか判らないもの。しかしとても大切なもの。今回は舟のような形を利用し表現してみた。水を大切にしてきた雨引の地への贈り物になってもらえるだろうか。

鈴木典生
桜の木の下に、様々な大きさの白御影石を敷いたこの作品は、降り積もった雪の様に、色々な物を覆い隠している。パーツには穴が空いていて、その穴が大気と大地を繋いでいる。その穴の奥には生命体が宿っていて、雪解け穴から芽を出す植物の様に、密やかに「その時」を待っているかもしれない。桜の木の下で。

槇 渉
ものの始まりと終わりを考えると現時点は一体どこに位置するのか知りたい欲求がある。人類進化、地球未来そして自己生命などなど様々な思いがめくるめく中、雨引の現時間を封じ込めることによってささやかな安心を得るのである。

横山飛鳥
雨引の里を巡ると、神社や祠があちらこちらに祀られていることに気付く。ひとたび神社に足を踏み入れると日常の喧騒から離れて非日常の静寂に包まれる。それは、私の中にも刻まれているであろう千年の記憶が、時空を超えて呼び起こされる瞬間である。人の世界と神の領域、此岸と彼岸を結ぶ存在として真っ直ぐな道が続く景観を顕在化してみた。

志賀政夫
木にバーナー・L鋼、5040×5040×200 香取神社の境内に佇むと、そっと吹く風が、太古の風を乗せてささやき始める。記憶を取り戻し、ひとつひとつの思いが色になって輝き、それぞれに散っていく。優しい風、激しい怒りの風、涙ぐむ風、そしてほほえ風。数千年の旅を終えようとする風が、きざまれたすき間に色を置いている。風の色は記憶の途中。

丸山富之
久しぶりの野外展示です。お墓詣りの方々に、私の作品はどう感じてもらえるのでしょうか。

田中毅
こんな狛犬が居たら、面白いかな。近頃、置かれる狛犬は皆んな同じような感じで、きれいに作られ過ぎてる感じがする。俺ん家のだったら、こんな感じでいいかな。

古川潤
物の形を単純化していった究極は球体だと言いますが、角が取れて丸くなった自然の河原の石には、球はおろか同じ形すら見つける事は難しい事です。一つひとつに物語があって、ささやかでもその形に持った力強い主張は日常にあってとても魅力的です。少しだけ見る角度を変えて、新しい発見をしてもらえたらと思います。

藤本均定成
自分が関わる社会、特に身近である芸術社会をじっくり観察してみると、面白いことが多々感じられます。タイトルについて考えてみる。もしタイトルであった『文字』が作品に、作品であった『物』がタイトルになってしまうことや、その区別が無くなってしまうことを考えていると楽しくなって来ます。

村上九十九
大和村大国玉の大地に椅子のステージ。木という素材に魅せられ、彫ること、切断すること、磨くこと、組むこと、構成することなど、彫刻の手法、造形の宿命に長い時間をかけてきたが、これらの作業に植えることを加えよう。この関係はぜひ美しくあってほしい。

松田文平
物体の存在は、他との比較があってはじめて成り立つものですが、人の意識においては比較対象なしで独立して成り立つことが可能だと思っています。たとえば宇宙の果てを思うとき、なにかと比較しては全体像をつかむことはできません。常に石を彫って石の外に出るようなものを造りたいと意識しています。

平井一嘉
原石からもとめる形を彫り出すときに必ずいらない部分が出ます。同じ石なのに私の身勝手で作品として残る部分と捨て場にこまる廃棄物となってしまった部分。石には変わりないのに、私によって敗者となった石たちに晴れの舞台に登場してもらい喜んでもらえる存在になってくれればと思っています。

大栗克博
第3回展から5回展まで、水の行方、光の行方、そして風の行方と行方シリーズ3部作の最終章。風を大きく取り込み、またときにはいなすといった空気エネルギーの代謝作用。しかし、この時代、行方として見守らなければならないのは、自分、私自信のこれからの行方ではないだろうか。

廣瀬光
たとえば2つ以上の物質が存在する場合、互いの関係は相対的な位置や距離、大きさによってより複雑になり、それによって生まれる緊張関係は変わってくる。ものとものとの間にすきまを作ることでまた別の関係が生まれてくるのではないか。

山添潤
人間は学習する生き物である。まさか同じ過ちを二度と犯す筈もなく、何事においても前回より劇的に向上しうるものである。人間は学習する生き物である。筈である・・・。

水上嘉久
地表に露出した岩盤が、雨や風などの風化作用によって削り取られて岩石となり川の水流や海の波の力により石に形が生まれる。さらに侵食が進むと砂礫となって地表や海底に堆積されてやがて岩盤となり地殻の一部を形成する。地球環境が激変して人間と一部の生物が死滅したとしても尚地球は数億年ないし数十億年は生き続ける。

山本憲一
『円形砥石』とは石の表面を擦り、形成するための道具に過ぎません。しかし制作の過程で偶然に生まれる「形体の変化(消耗した形や割れたかけら)」に不思議な存在感を感じました。この趣のある形を自分の造形に取り込み、雨引の自然の中で表現させていただきます。

高梨裕理
そこへ行ったら何も起こらなかったと思うか、
何かが起こったと感じるかは、
そこへ行った人しかわからない。

安田正子
ドイツの初秋には生クルミが出まわります。食べ残しを数個持ち帰り、アトリエの庭に埋めたら翌年忘れた頃にそれらしい芽が‥‥‥、そしてまた忘れた頃、ふと目をやると堅いクルミの殻が半分、根元にころがっていました。欅の巨木に力をもらって、芽生えのかたちを表現してみました。

百瀬博之
作品は畑の石を掘り出すことを主として制作しようと考えた。その場所への関わりかたとして、物と時間をそこから得、そこで費やそうとした。掘り出された石や物が、作品の素材としてではなく、そのものの出現自体と、掘り起こした行為がかたちにならないかと考えた。どんぐりは毎年これ位にはなるらしい。

國安孝昌
いつも場の気配を読むことから、私の仕事は始まります。遠く霞む筑波山を背にした雑木林の一角に、天の気を地に導きつなぐ、憑代(よりしろ)を立てたいと思います。雨を引く里の天の気。雨を集めるイメージを塔状の彫刻に作りたいと思います。願わくば、そこに眼には見えない、大いなる何かが気配されることを期待して。

中村義孝
子供の頃から森に入って遊ぶのが好きだった。森の中を歩き回っていると、太陽や風や水が長い年月をかけ造った自然の造形物を目にすることがあり、その不思議な形に度々驚かされることがあった。今回私は何も造っていない。自然のなした業に少しだけ手を加えただけだ。

佐藤晃
ゆるやかな起状の畑やあくまでも水平な緑色の田圃。隣接する背の高い森は意外にも深く続いている。森を背に廻りを見渡してみると、視線は遠くの山や空へ向かう。この場所を基点に彫刻を考えてみる。私にとって石を刳り貫くことは周囲との関係を探る手段である。

菅原二郎
この作品は立方体を割っていったときに出来るであろう割れ目だけを取り出し、それに厚みを加え、ひとつの石より彫り出し、そのブロックの中に含まれていた面の構成を現したものです。その面のいくつかに大小の窓を開けその空間の拡がりを田園の風景の拡がりの中に置いたら、と考えました。

金鉉淑
何度もまわり、やっと見つけた小さな豚小屋。
都会育ちの私にはなれない場所であり、興味深さで惹かれる。
'ここだ!' 豚がこどもを産まなくなってから停止してしまった時・空を酸化し過ぎた空き缶がモノ語る。私はここで新たな時・空をほりだす。

金沢健一
100mm角のアルミニウム角管を50mm幅に切断する。それを3つ組み合わせ、約50のバリエーションの形態をつくる。広い雑木林の中に入り、それぞれを木に取り付ける。あたかも木の上の小さな家のように。

井上雅之
便利さや効率に追われて随分と遠景に隠されてしまいましたが、物事を理解し、程よくこなしてゆく力としての「知恵」に心惹かれます。生活の基盤として受け継がれてきた地に、積み上げるという極基本的な行為で形づくられた形体を置くことにより、そこに重ねられた時間と固有の営みを露にしたいと考えました。

田村智義
わずか50年前まで、日本の歴史書に旧石器時代は記されていなかった。火山灰の降りそそる中、人間は生存できないと考えられていた。岩宿の赤土の中から、相沢忠洋氏が槍先形尖頭器を発掘し、この定説を覆したのだ。学閥の波においやられた黒曜石の輝きに、何かオーラのようなものを感ずるのは、私だけなのだろうか。

サトル・タカダ
このイメージは三日月のアーチの造形美と隠れた部分の空間の魅力から発想をしました。鉄材による構築が池の中で立ちアーチの空間に宇宙からのいん石を思わせる岩を吊り下げた造形作品がこの環境の中にはたしてどのような印象を見る人達に与えるかは興味のあるし、静かな雰囲気を驚きのある風景と変えるか楽しみであります。

戸田裕介
彫刻を作る。「物」が持っている「魂」を引き出したいと思う。「魂?、そんなモノ無いよ。」誰かが忠告してくれた非科学的な考え。けれど、現実に物と対峙する時、圧倒的な力を感じるモノから繊細なものまで、理論的に説明出来ない「何か」を感じる瞬間が在る。美しい風景や日々の暮らしの中、そんな気配は潜んでいる。

山崎隆
鑑賞コースの関係で45番、最終番号の作品になってしまいました。見に来て下さった方々は随分とお疲れになって、私の作品の所へ到着することと思いますが、どうぞ最後まで見てやって下さい。愚直に、ひたすら自分の思いを石に刻んだ作品です。