第4回 雨引の里と彫刻について

静かに行く人は遠くへ行く
CHI VA PIANO SI VA LONTANO



私は第3回の「雨引の里と彫刻」に参加して、北関東の山里の村という圧倒的なリアリティを持つ空間を前に、30人を越す彫刻家達と愚直といってよいほど真面目に何度も何度も会合を重ね、村の人々とも話しながらささやかな展覧会を立ち上げるという経験を共有できた。 『静かに行く人は遠くへ行く』。展示の興奮がひとしきり醒めて、私はイタリアの諺と聞くこの言葉を思い出した。
現代の文化はどんどんデジタルという仮想現実に向かい、サブカルの軽さばかりが時代のリアリティとして喧(かまびす)しい。だが、そんな趨勢をどう出来るものではないと承知しつつ、心ある少数の人はそんなところには真実は無いことに気づいている。
近代、芸術家は鋭敏な感性で次の時代を予感させる先行指標のようにいわれたが、現代、本当の芸術家は、時代や人々が捨て去ったものや忘れたものの意味や大切さを落ち穂拾いのように集めながら「オーィ、みんな、どこ行くんだよ。」と時折、人々に静かに呼びかける、トボトボと時代の殿(しんがり)を行く人であると私は思っている。
「雨引の里と彫刻」を訪れると参加作家の表現の方向性は様々で同じ展覧会を共にすることが奇異に見えるかもしれない。しかし、私達は今は流行らない価値だけれども一点の共有地点を持っている。それは、ここに集まった彫刻家達はみな美術を信じている、愚直なほど真面目に彫刻をみな考えている。ということだ。
そればかりか展示に参加してみると本当は彼らは美術を信じている以上に人々を信じているのだと気づいた。私は雨引の地でトボトボ行くのは一人ではないと勇気を貰うことができた。
あえて耳目を集められない田舎でささやかで地味な展覧会を試みる「雨引の里と彫刻」は10年先15年先にボディーブローのように病んだ時代と社会に効いてゆく。そんな展覧会に回を重ねるごとに成長して行ける予感と手応えを私は感じている。
追伸
5月27日。今日、私は第4回展に参加し終えた。いま、回を重ねて二つのことを思う。ひとつは、改めて、雨引の里の空間や風景が豊かなこと。もうひとつは、雨引に集った作家達の志(こころざし)を遂げる道は遠いことである。けれども、作家達の静かな歩みは真摯な情熱を深く宿して揺るがない。そう私には信じられた。

参加作家
國安孝昌