今回参加した各作家の作品に対する思いや、制作に関して日頃考えている事、 雨引の里と彫刻に参加して感じた事など、それぞれの気持ちを綴った作家のコメントです。
井上雅之
生産現場として幾世代にも渡って受け継がれて来た
人工空間の田圃に興味を持ち、
確かな手応えを感じ、働きかけられたこと。
共同作業ゆえの人の繋りが、
力を持って姿を現わす場に立ち会えたこと。
新たな試みというものは
期待以上の喜びを与えてくれるものです。
大栗克博
水辺には、鳥や魚や小動物などさまざまな生き物が
集まります。望楼とは、遠くを見るための
高い建物、物見やぐらといった意味のものですが、
その彫刻を手がかりに、背景の池に映る
空の色や水位の変化、小動物など
豊かな自然の営みを見てみたいと考えました。
期間中赤く染まる秋の夕暮れを映し出した水面が
強く印象に残っています。
大槻孝之
この展覧会の魅力は発表の場が美術館や公園のように
生活の外側に囲われてある空間ではないからです。
軌道敷跡は、かつて電車が走り
人や物が運ばれ他の場所と繋がっていた所であり、
今は人々の記憶とともに残る空間です。
また田畑や林は、作物を育て収穫するという
自ら物を産み出す生きた空間です。
そのような大和村の生活の内側に彫刻が
入りこんでいけた事がとても新鮮でした。
そしてそれはなによりも彫刻とは何かという問いを
山びこのように問いかえされたからです。
岡本敦生
のんびりとした田舎の風景がある。
都市化・近代化が進行する過程で、何かが破壊され
退化してゆくのを感じている。
それは風景だったり農業の手段だったり
生活の中身だったりするのだが、その波を我々の手で
くい止めようなんて考えている訳では無い。
ただ、失われつつあるものをもう一度自分の心の中に
刻み込みたいと思っている。
海崎三郎
栗林の中は、葉が空をさえぎり木洩日が落ちてくる
美しい空間でした。竹ぼうきで落ち葉を掃いていくと、
少しずつ固い土の面が表れてきて、
最後にはそれがどこまでも続く土間のように見えました。
背のひくい空間を選んだことや、
落葉が雪をうけいれることは、作品と土のかかわりを
考えることであり自分にとっての野外を
そこから始めようと思いました。
小口一也
感性の表現が異なる27名の作家が参画し、
苛酷な物質面と自然環境の中で作品との共存性を
模索しながらお互いにぶつけあった時空は、
貴重なる財産を提供してくれました。
生きているということ・を
ここ数年テーマとしている小生にとって
土壌を含め森羅万象の生物と神話の世界で対話を
こころみたつもりであったが、自然の厳しさに
数度崩壊され己のあまさに痛感しました。
また鑑賞者は、田園風景とそのなかの作品を
散策されこの田舎を愛し堪能された事でしょう。
数多くご鑑覧いただいた方々・
ご指導協力いただいた方々・この環境を与えてくれた
この地に感謝したい。
佐治正大
作家主体を大基本に”全て我々の手で”と
勇ましく始まった展覧会ですが、
実際は手弁当代よりも費やされた時間が大変、
核となって引っぱってくれたメンバーの熱い情熱に感動、
頭が下がります。”物づくり”も同じ、
この情熱温度を上げる増殖炉が欲しいものです。
サトル・タカダ
沈黙する空間 失った時間
解き明かす事のできない人間の不条理
だが一瞬、此処には熱い何かがあった。
志賀政夫
旧雨引駅のプラットホーム……
遠い昔の出来事が、流れる風によって聞こえてきます。
遠い記憶をたどり、人々のささやきを聞きます。
風が色をそっと置いていきます。
雨・風・雪 冬の80日間ここに生活しました。
作品名「風の色」(人々のささやき)
1998年1月21日 火葬。
大和村 雨引の里に眠る。
芝田次男
展示空間に選んだ栗の林は、
10年の歳月が経っているという。
晴れた日の夕暮れ近くにこの若い林の中に居ると、
葉を落とした木々の細い枝が長い影を
地表に延ばしているのを見ることができる。
陽の光によって方向づけられた樹影は、美しさと
不思議な規則性とを合わせ持つようだ。
菅原二郎
第2回雨引の里と彫刻、27名の彫刻と
大和村の田園風景との出会い、人々との出会い。
1回展ではまだ見えなかった新たなものが
見えて来たような気がする。
ふだん美術等に接する機会の少ない村の人々に彫刻を、
具象も抽象も含め様々なジャンルの現代美術を、
眼にしていただけたのではないだろうか。
美術館や画廊等でふだん美術に接している人々には
彫刻と風景という対比のもとに美術の新たな可能性を
見出した人々もおられるのではないだろうか。
鈴木典生
子供の頃から何度も足を運んでいた雨引観音。
その歴史を感じさせる風情のある参道。この場所に
自分の作品を置くということは考えたこともなかった。
しかし、この展覧会に参加した事により、
様々な作品、人、自然に出会い、改めて雨引という土地、
そしてこの地域に生まれ育った
自分というものを再認識する事ができた。
そして、展覧会が終わった今、この場所で自分には
どんな事が出来るのか、どんな可能性があるのか、
新たなる欲求が生まれてきました。
田中毅
雪も雨引の里に降り、作品を引き立たせてくれた。
雨引の里でやってみたいという思いが、
いろんな人のおかげで僕の中で今回成功しました。
土屋公雄
子供の頃より山のある風景に親しんできた私にとって、
はじめて訪れた大和村の風景は懐かしいものであった。
今回その山と森を背景に作品が展示できた事を嬉しく思っている。
常松大純
田園風景のなかに<場>を求めることから、
創作は始まる。
審査がない。 賞がない。 金もない。
開放された心。 のびやかな造形。
<場>との出会いのエネルギー。
→→→ 未知の可能性のアブリダシ。
見知らぬ自分を見つける楽しさ。 おもしろさ。
手づくり彫刻展。 27の個性のでる会議。
よき仲間との出会い。
中井川由季
少し蒸し暑い初夏の午後、
集合場所に集った人々の熱気と緊張は、
企画者のいる美術館でのそれとは違っていた。
私は、ただ1点、自分の立っている場所を
少しずらした所で見てみたいという
理由のみで参加を決めた。
「やきもの」で立体作品を作っている都合で、
発表する都度に様々な詰問が飛ぶ、
それらの質問の最適解を
自身の中に見つけ出すための経験の1つとして、
この展覧会に参加できたことは得がたいことであった。
長嶋栄次
自然との調和をイメージの一端として
制作したについては、一寸ばかり考えが甘かったようだ。
冬枯れの軌道跡や田畑の表情は硬く時には
冷やかにすら感じる厳しさもあった。
しかし反面、周囲にめぐる緩やかな山波や
樹林が想像以上に穏やかで、
優しく作品を包容してくれるのを知った。
その理由を悟ったのは雪景色の中であった。
今度は萌え、灼けるような時に試みてみたい。
終りに、このような機会を与えて下さった方々に多謝。
八田隆
この展覧会は私にとって、人の集うことの意味を
あらためて問い直すいい機会でした。
一人の作家が、情熱を傾けて
仕事に打ちこめる「場」が与えられて、
そのことのみ全神経を集中する。
一人の作家が、全体の展覧会のためにあるのではなく、
自分のためだけに作品を設置する場所に現す。
そんな一人一人の作家のエネルギーが結集して
この作品展のイメージをすごくいい方向にもっていって、
それが見に来てくれた人にも「伝わった」と思う。
平井一嘉
私は雨引観音の山門の前に展示させて頂きました。
私自身も車を使いますが、お寺までほとんどの人は
出入口である門を潜らずに、車で上がってしまいます。
昔の人はどのような思いで参拝したのであろうか。
便利さゆえに忘れられた自然の再発見はまず、
歩く事のような気がしました。
廣瀬光
考えること(思考)、作ること(制作)、
それを見せること(発表)はそれぞれとても重要で
切り離すことのできない関係にあります。
展覧会「雨引の里と彫刻」は特に、
見せるという行為おいてに実験的な試みがありました。
農業そして石材産業で成り立つ大和村、
日本的な田舎の風景がまだあちこちに残るこの村に、
全く別の文化ともいえる27の現代アートが置かれ、
大和村といういつもの風景が
およそ2ヵ月半という期間の中で
どのように変わっていったのか、それとも変わらなかったのか
それらを見つめる目を持ち続けていたい。
藤倉久美子
本当はもう手遅れかもしれない。
でも、今からでもよいから、
気付いた時からでもよいから、何かをはじめないと
地球は滅びてしまうかもしれない。
そんな思いが頭の中をよぎって、
田舎の風景の中に作品を置いてみて、
人間達の傲慢をかえりみて、
人間達が汚してしまった
海や山へわびる気持ちになりました。
藤本均定成
社会の構造が複雑になり職種が多様化され、
本来ジャンル化されるものではなかった芸術の世界も
それに同調するかのように、
いろんな様相を見せ始めています。
観賞する側も展覧会の企画を選べるようになり、
“見る人と作品の出発点”に立たなくても、
既に観ることが整理されているのが
普通となってきています。
今回の「第2回 雨引の里と彫刻」はあえて、
彫刻のジャンルを整理しなかったことで
観賞する側が認識の出発点に、
今一度立ち戻ることができたのではと考えます。
松田文平
一つぶの小石を水面になげた時から
一点を中心に波紋は広がってゆきます、
そして、また小石の一点へともどってゆきます、
これは、制作してゆく過程ににていると思います、
そのような作業は、けっして
実生活に必ず必要ではないにせよ、
だれもが多かれ少なかれもちながら生活しています。
実生活の場である雨引で作品を発表出来たことは
新鮮な感動でありました。
宮沢泉
彫刻をそこに置くことで
まわりに普通にあることが
何かしらあざやかに感じられ見えてくる、
歩く人が見えてきたり、
空が高いと感じたり、
そんな何気ないあたりまえのようなこと。
村井進吾
1月23日、既に作品が取り去られたその場所は、
緑が濃い頃には異様に映った立ち枯れた栗の木立も
周囲の冬景色に溶け込みありふれた景色であった。
台形に切り開かれた斜面の中程に
黒く残る掘り起こされた土の新しさが
2ヵ月半の出来事を僅かに想わせた。
村上九十九
自然に対する畏敬の念をいつも心に抱いていても、
私たちの立ち入る場所に置いて、
あるがままの自然はあろうはずがない。
日常的生活空間、人工的自然が風景である。
都市であれ田舎であれ、
終日眠らぬ眼差しがいつもあることを十分自覚し、
仕掛けなければならない。
一瞬であれ侵犯したい衝動に駆られた行いの証しとして、
あらゆる注意をはらって表現を探る。
野外空間はいつも実験の場である。
望月久也
野外の展示は、これまでもそれなりに経験してきましたが、
今回は特に、場がもつ多様性というか、
重層性(時間も含めた)のようなものを感じさせられました。