• あいさつ




    photograph SAITO Sadamu


    私たちは雨引の里の2回の展覧会から多くのことを学びました。
    作り手にとって、設置場所の選択は直接作品にかかわる大切な問題です。
    地形やそれを覆う緑の高さ、ひかりの量、水のゆくえ、風の向き、空と大地の割合にいたるまで、展覧会の時期を想定しながら自然の中に身を置いてみます。
    そして歩きまわることで自分と自然との接点を見つけだし、作品の居場所を探すことの楽しさと、それを実現させることの難しさを同時に味わいながら、雨引の里で発表を続けてきました。
    そして今年に入り、私たちは新たに第3回展にむけて動きだしました。
    出品作家も最終的には33名というこれまでにない規模になっていました。
    前回までの反省点をもとに多くの方々に参加していただき、話し合いを重ねているうちに、この展覧会に対する大和村全体の理解がよりいっそう深まっていることに気がつきました。
    そして私たちの意識も同様に熱っぽさを増していきました。
    「雨引の里と彫刻」展は、ゆっくりと育ってきていることをこの時実感することができたのです。
    これは私たちにとってとても大きな収穫でした。
    田舎の風景を再確認しようという目的は、第3回展にも引き継がれています。
    作家自身が身をもって体験した大和村の自然から、どんなかたちで作品と風景が結びついていくのか御高覧いただければ幸いです。

    雨引の里と彫刻 実行委員会


  • 第3回 雨引の里と彫刻について

    3年前に7人の地元で制作している彫刻家達によって始められた同展も素材、規模も回を重ねるごとに拡大し3回目の今回は参加作家33名、38点の規模の展覧会となった。
    この展覧会の最大特徴のひとつは美術館とか地方公共団体などが主催するのではなく作家達が自主的に運営している点である。第2点は作家達が自分の作品を展示したい湯所を探し、役場の協力を得ながら各々が地権者を訪ね承諾を得てはじめて場所が決まるという点であろう。
    その結果ほとんどの作品は作家が選んだ場所を強く意識して作られた作品となった。
    現在、宇部、須磨をはじめとする国内で開かれている多くの公募のコンクールや野外彫刻展では作品の審査はされるがその作品がどのような場所に展示されるかは主催者に任されているのが現状である。
    今回の作品は林の中(栗林、雑木林、桐林)川のまわり(土手の上、河川敷)用水池の中、その周辺、畑、蕎麦畑の中、農道の横、神社の境内等、ある場合は山林などによって比較的閉ざされた空間に、又ある場合は広々とした田園風景の中、筑波山を背景にと様々な状況の中に展開している。
    現在私たちが彫刻に接する多くの場合、それは美術館や画廊といったニュートラルな空間に置かれたもの又は公共の場や建物に設置されているいわゆるパブリックアートと言われているものではないかと思う。大げさな言い方をすれば彫刻、ひいては文化というものはそのような場でしか接することが出来ないのが現状なのではないだろうか。
    私達が行っているこの展覧会は大都会でではなくそれこそ美術館も画廊もないような行政の最小単位である村、大和村で開催しておりその意味するところは彫刻、文化はもっと日常生活の中で普通に接するものであり特別なものではないということを、少しずつでも日本の中に浸透していってもらえないものかと思うからである。


    雨引の里と彫刻 実行委員会
    菅原二郎


  • 作家の一言

    第3回 雨引の里と彫刻に参加した各作家の作品に対する思いや、制作に関して日頃考えている事、 雨引の里と彫刻に参加して感じた事など、それぞれの気持ちを綴った作家の一言です。


    芝田次男
    森のなかでは、太陽の光が樹樹の間で色々と変化しながら、独特の明るさと暗さとを作り出しています。それと、多くの木や草の生気のようなものが満ちていて、あの魅力溢れる空間になっているのだと思います。作品は、森のなかに「集う」思いを表現しています。集うものたちは、そこでは樹と同じような形態をしているので、地上に落ちた影は森に同化しています。


    鈴木典生
    実際に日に触れるもの(客感的に見えるもの)に対し、潜んでいるもの〈見えないもの(地下にあるもの、あるいは精神)〉どちらがそのものの実体なのか、どちらが大切なのか、また、何を守るべきか、何を残せるのか、私はゆっくり、じっくり考えている。


    廣瀬光
    川や田畑や家、植物は均一で大きな流れは南北に沿っていた。たぶん空気の密度と同様に北から南に見えないほどにゆっくりと移動しているように感じた。ここに置かれるであろう作品の物質的な問題は、この時点ではほぼ想定されていたので周囲を取り込むための、あるいは受け流すための形態がより重要であった。


    松田文平
    表装物の中を知るための一番はじめに受ける印象とすると、表装を極限まで削りとっていったときに物の形は消滅してしまうということです。ちょうど「らっきょ」の中身を確認するための皮むき行為に似ています。石材は「むく」の素材のため、中と外を把握するのに好都合な素材であります。


    水上嘉久
    場所について-光音風臭気冷気透明偏光明滅  狂犬麦汽車緑青呼吸腐蝕仮死夢臨終至上完全
    水平垂直上昇下降圧力重力多重屈折温度真空  東西南北春夏秋冬時空静止雲水付虚無石微動
    因果遠近農夫迷信忘却過去湿地田園境内子供  酸化陰摂取灰研磨臓樹液死骸雲母石英御影石


    村上九十九
    私の母は93才。目も耳も言葉も健常である。体は縮まり子供のように軽くなったが、かけがえのない存在である。母に喜んでもらうために自分は頑張っているのだという思いが無意識的にあるのかもしれない。いずれ訪れる絶対的不在への恐怖感、虚無感に立ち向かう行為としてまた自分にも間違いなくやってくる確実な(空虚)に対し不完全な存在を彫刻することで、時間を埋めなければならない。故に、木を削り組みたて、上昇する空間(水辺)に設置した。


    岡本敦生
    タイトルに付けているUNIT くユニット)という言葉には「これ以上崩すことの出来ない基本的な単位」という意味があります。このUNIT(作品)のおかれる環境は問題ではありません。今回のように山のなかにあっても、都会にあっても、家の中にあっても良いと思ってます。UNITに続く9910はこの作品の認識番号、A. LB. は形のコンセプト、s1/1は縮尺、riは中に詰まっているものの番号です。


    藤本均定成
    私のものを作ることが芸術との出会い‥ それを通して「存在の本質」を見ることができればと考えてきました。現在はそれと共に、芸術そのものの在り方と仕組みに興味をもっています。今回は、観賞することに的を絞って作品とし、芸術の輪郭らしきものが見えればと考えています。


    島田忠幸
    現代において、芸術は宗教に代わって超越的な体験を人々にもたらすものだ。たとえばそこに無いものを見たり、感じ取ったりすることができる装置としての彫刻である。森を舞台装置として、きまざまに読み解ける物語を発表したい。


    たべ・けんぞう
    この作品の材料は、使えなくなった機械の部品、壊れた湯沸機、捨てられたバイクのパーツなどの部品です。この世で使命をを終えたもの達に生命を与え、新たな世界へと再び新生させようというのが、私の仕事です。


    渡辺尋志
    古事記のなかに「天地四方を以て六合(くに)となす。」という一節がでてきます.この地に六合を感じました。人の住む豊かな土地を視ました。そして、狸も見ました。こういった自然があるっていいですね。狸の隣に人間が住めるって良いですね。無くさないでね。狸の六地蔵に願いをこめて制作しました。


    國安孝昌
    雨引きの里をめぐると溜め池の多さに篤かされる。稲作の地では水そのものが生命を繋ぐ賜である。自然と生命が直接につながることを拒絶していく現在の文化の進路に苦しさを覚える。私は雨を呼ぶ憑(よりしろ)代を作りたいと思った。


    安田正子
    日頃、仕事場で黙々と制作しているものを、限りない自然空間へ引っ張り出してみると、何か答えが返ってきそうです。草いきれの径をのぼりながら、ここに置かせてもらってもいいですか…と いつも思うことでした。


    村井進吾
    循環する物質である水と安定した状態を保つ石が一体を成して在ります。刻々と変容する水、時を留めたままの石塊、それぞれの物の性質がどのように牽制し響きあい、新しい杜の海を形作るのでしょうか。


    大栗克博
    農村部の畑の上に水の流れを意識した作品を置きました。現在、酸性雨やダイオキシン問題などわたしたちの日常の生活に直結する水にまつわる問題がたくさんあります。水の行方は、わたしたち人間の行方であり、人それぞれが水に対する思い入れを語れるような作品と考えました。


    田村智義
    パチャママとは、インカ帝国の神々の名前のひとつを引用したものです。
    ボンチョと帽子を身にまとい、幾万年もの時を経て山と化した姿を表現しました。


    中井川由季
    五月雨の中で、森を背にした小さな溜め池を見付けました。大和村のこの地区には溜め池が点在していて、この土地を特徴づけています.その中のひとつ、この溜め池に作品を設置しようと思いました。私は粘土で形作り、それを焼成して作品を作っていますが、「作りたい形」はいつも自然のなかからみつけています。そうして作った「もの」を溜め池の片隅に置いてみたらどんな姿に移るだろうか、恐ろしくもあり、楽しみでもあります。


    山上れい
    真鍮の線材の組合せによって、新しい空間を創出したいと考えている。初めて大和村を訪れたとき、美しくきらめく空気・光り・風を感じた。やわらかな陽光の差し込む木立の中で、そのきらめきを表現したい。


    サトル・タカダ
    自然環境と人間がどのようにして共存するか未来に向かい様々な試行が提案されている。自然の美しさや恐れを人間は素直に受け入れその恵みを永遠に持続きせたいと願うものではないであろうか。今回[BIO-BRIDGE]という造形は従来型の野外作品ではないコンセプトで成立されている。水上に浮かぶ構造になっていますが、単に浮かぶだけでなく水の環境の生態系をどのようにすれば、濁らず、清い水に持続できるかを考えている。水の中にある微生物によるカタルシスを生み出し水の循環を可能にした再生型ビオトープの一つである。次に造形のコンセプトであるが、生命のDNAの二重螺旋構造を感覚的に表現し水の中から空中へのびて行き、水のなかに入る直経60mmの金属パイプを溶接により加工し抽象的な形態が無主力の空間に浮かんでいる。昼の太陽光では明快な色彩による形態が夜間になると紫外線の熱を利用して蓄光材の性能により蛍光色の美しい光を発光する。しかもその光は蛍の光のようにゆっくりと点滅を繰り返す。構造的に水の中で浮くためには浮力が必要になる。このためにステンレス製のドラム缶を利用した。全体のバランスを調節するためのバラストの計算をしなくてはならない。ドラム缶は正三角形の形状をもち水深50cmの所で鉄パイプによりジョイントされ一体になっている。次に水の環境メカニズムについてであるが水の汚れの原因である栄養塩類の植物性プランクトンをとりこみ水環境の修復を行なうため人工生態礁を設置し食物連鎖を促進することにより植物性プランクトンの抑制による透明度の増進をし自然環境を守るため有効な試みを果たすものと思う。また、今回のプロジェクトのなかに盛り込まれている特色として太陽電池の利用もある。作品独自による動力を発生させる。広大な湖のなかに設置された場合にも作品それ自体で夜間に発光させることが可能である。


    山崎隆
    青木神社、参道の入口。御影石の鳥居が長い年月を経て、あたりの景観に静かに溶け込んでいる。台車に(供物)⇒GIFTを載せた作品で鳥居との空間的、観念的共存を考えてみました。どなたでもお気の向くままに、何かを載せて頂ければと思っています。


    平井一嘉
    もし、遺伝子組替えなどで大きな豆ができるようになったら、豆の木はどうなるのでしょう。「青木神社ではこんなことがあったなあ。」と、観にきてくれた人の心のなかに伝説として残ってくれたらいいのになあ!


    斎藤徹
    地上での、人間が作ったあらゆる建造物を見ていると、科学と文明の力に驚かされることが多いが、地球規模で起こる様々な現象(気象的なもの、地表下の動きなど)と、それらが引き起こすエネルギーを考えると人間の非力さを痛感せぎるをえない。しかし時としてその恵みを忘れ、対立の関係に位置し、過度の開発と破壊へ向かってしまうことがある。私は、自然からえたエネルギーを自然に還していくような姿勢で、人間がかかわっていくべきと考えます。この場における天壌(碑)も、そういった意味で考えてみました。


    槇 渉
    長い間石を彫って思うことは、随分割ったり穴をあけたりしていじめてきたこと。いや逆にいじめられてきたのだが、このへんで石も自分の足で自由にまだ見ぬ世界を歩いてもらおうか。


    田中毅
    風雨に耐え、熱帯の強い日差しと気温にも負けずに重々しく咲く花に出会えるかも?


    佐藤晃
    石の中を刳り貫き、脱け殻のような枠状にして、空や廻りの景色と対比させて提示したい。こんな想いが制作の発端にあります。これを実現する場を大和村の中に求め、たくさんの方々のご協力により、イメージは姿をもちはじめました。さあ、これからです。


    菅原二郎
    この作品は四角柱を6この部品に割り、それらをすべて使って内を外に向けて組合せたらどんなかたちになり、またそれはどんな感情を感じさせるものになるのか・・・に興味をもち作った作品で、理論的には各部分を正しい位置に組合せるともとの四角柱になります。


    海崎三郎
    室内でありながら、半分屋外の空間が入り込んだような、そんな作業場を見付けました。その半分、半分が微妙に両立し、融合していることにとても新鮮な空間を感じました。今回156cm×124cm×100cmの鉄の作品をそこに置くつもりです。


    望月久也
    川岸に作品を置きます。川の流れや周田の移ろいは、それとは一見無関係に営まれているようです。しかし、日々の繰り返し、四季の巡りとして感じられるサイクルも、何一つ同様ではなく変化の中にあります。「在る」とは時間と場所を切り取る目印のようなものです。


    西川利夫
    私は丹沢山塊の北端にあり、四囲を山に囲まれた神奈川県相模湖町という人口約1.1万の小さな町に住んでいます。対して、雨引の里は間東平野に位置し、限りなく続く水平に開けた大空間の裡にあります。筑波山を背景にしたこの「場所」で、物理的に面をもたない私の彫刻が、皆さんの視線によってどのように再構成されるのでしょうか。


    大槻孝之
    作品「方舟」は、河川敷の設置場所に何回か足を運び、広い空と風の通る草原の間で何ができるか思考しながら出来たものです。作品を触媒として、向こう側にある空や雲や緑を見てくれればうれしいのです。


    宮沢泉
    日々、目にうつる緑
    耳に聞こえる緑
    そんな緑を石に彫ってみたいと思いました。


    グループ・等(佐治正大及びメンバーズ)
    地球の環境を守るためのメッセージとして、多くの制作者により、森の木々に包帯を巻き、見てくださる方々や子供たちの思いを伝えて頂くための大画面を用意して、みんなの参加するアートとしました。コンポスト型トイレもあります。生きものたちの森を体感してくだきい。


    小口一也
    2回展は風神・本展は地神をテーマに、そして万物との対話をこころみた・・・・・金鏡の神は、筑波山が真正面に見えるところに祭られ、わら宝殿の前に一升瓶が献納され、雑木林の片隅で土壌を含めた万物の生物に「生きる」ことを語りかけている。