• 実行委員会からのあいさつ

    はじめに、「雨引の里と彫刻2025」を無事開催することができましたのも、阿部田、羽田、木崎、前原、中根、高久、鷲宿地区の各区長様、地権者様、ボランティアの皆様のご協力の賜物と一同心より感謝申し上げます。

    まだ暑さの残る9月21日、「雨引の里と彫刻2025」は始まり、二十四節気でいうところの小雪を過ぎた11月23日に幕を閉じました。気候変動が叫ばれる中、振り返れば、冷涼でうららかな秋の日を待ち望み、気づけば朝には霜が下り寒さに震える、夏から初冬への急転直下の2か月であったと思い返されます。そんな極端ともいえる気候の中でも、青々としていた木々の葉は赤や黄色に色づき、丈の短かった蕎麦の芽は成長して花を咲かせ、実を蓄えて収穫時期を迎えたように、自然はたくましく移り変わっていくということを実感する日々でもありました。

    作家自身もそれぞれが風景の中に作品を置くことで、作品と自然との対話や移り行く気配と自らの作品との相関性を堪能することができたと思います。また、観覧者数も多く、お褒めの言葉も多数頂戴し、来場してくださった観客の皆様にも十分に楽しんでいただける展覧会になったのではないかと自負しております。

    今回は、前回コロナ渦の名残で断念しアーティストトークへと形を変えたバスツアーイベントも復活し、早々に予約が満員となるなど盛況を博しました。

    また、2015年以来久しぶりにワークショップも開催し、市内外の子どもたちと保護者の皆様に楽しんでいただくことができました。大勢の子どもたちが一堂に会し夢中で木工作に勤しむ姿は大変ほほえましくもあり、感動的ですらありました。しかしそれは裏を返せば、普段学校やこども園の外ではあまり目にする機会がない光景だったということもあるかもしれません。

    桜川市は2022年に過疎地に指定されました。日本中の地方都市で起きていることですが、少子化も進み小中学校も統廃合が行われています。そして子どもたちの無邪気な姿を見る機会が減るのと反比例するように空き家が増えていることをまざまざと感じます。

    私事ではありますが、今回、空き家となっている家屋の庭に作品を展示させていただきました。人が住まなくなって久しい母屋は老朽化が進み、再生は難しい状態ですが庭の木々は毎年花を咲かせ、落ち葉を散らし、生き続けています。庭に佇めばそこに暮らした人々の日々の営みが蘇ってくるような感覚を覚えます。

    以前、確か市の発行物で読んだと記憶していますが「桜川市はもったいない」という市内の中学生の言葉が心に残っています。「もったいない」ということは、それだけ大切に思っていることがあるということです。豊かな自然と筑波連峰を望む美しい風景、のびのびと安全に暮らせる環境、そして文化の根付いたこの地を、「もったいない」から「誇らしく思う」に言い換えてもらうために、我々大人たちができることはまだまだあるのではないでしょうか。

    私たちが彫刻展を通し30年間携わってきたこの地には絶えず人々の暮らしがあり、築いてきた歴史があります。その歴史の中に「雨引の里と彫刻」も一つの文化的要素として、これから成長していく子どもたち、またこの地で生まれ育った大人たちの心により一層深く刻まれていくことを願ってやみません。

    彫刻展という表現形態を通し、この地の人々の誇りの一つとして、引いては芸術文化を牽引する発信基地として、今、「雨引の里と彫刻」ができることは何か。再考し、検討を重ね、今後の活動をより活性化していけるよう、誠心誠意取り組んでいこうと思っております。

    雨引の里と彫刻実行委員会
    小日向千秋 参加作家


  • 市長からのごあいさつ

    この度「雨引の里と彫刻2025」の開催を迎えられましたことを心よりお祝い申し上げます。

    桜川市は東京から70 ~ 80㎞圏の茨城県中西部に位置するまちで、三方を山並みに囲まれ、春には55万本もの山桜が咲き誇る美しさから「西の吉野、東の桜川」と称され、市名の由来にもなった「桜川」が市の中央部を南北に流れるなど、緑豊かな自然環境に恵まれた土地です。

    「雨引の里と彫刻」は、1996年から定期的に開催され、今回で13回目を迎えました。9月21日から11月23日の2カ月にわたり、阿部田、羽田、木崎、前原、中根、高久、鷲宿地区の各所に35名の作家によって石材や木材、鉄、布など様々な材料を用いて制作された素晴らしい作品が展示されました。

    作品をゆったりと鑑賞するのに最適な穏やかなシーズンとなり、サイクリングやハイキングをしながら作品を巡ることで、里山の自然を感じながら、山々の情景の変化にあわせて作品の表情が変わっていく様子も感じられたのではないでしょうか。

    この展覧会は、30年にわたり続く全国的にも非常に珍しい野外展覧会として、毎回市内外より多くの方にご来場いただけるとても賑わいのあるイベントとして定着しており、この展覧会を楽しみにしていた来訪者の方のお話を聞くことも多々ございました。今回も新聞や雑誌、電子媒体などのメディアに取り上げられており、桜川市にとって大変期待の大きいイベントとなっております。

    また、桜川市では今年で市制施行20周年を迎え、本展覧会を記念事業の一つとして位置付けておりますが、市民文化祭や音楽祭などの開催と時期を合わせることで、イベント同士の相乗効果により、より多くの方々にご観覧いただき、芸術の秋の記念事業にふさわしいイベントとすることができました。

    開催に際しまして、作家の皆様はもちろんのこと、展示場所を快く提供してくださった地権者の方々、作家やたくさんの来場者を温かく迎えてくださいました地元の皆様など、大変多くの方々のご理解、ご協力に対しまして深く感謝申し上げます。

    結びに、「雨引の里と彫刻」のますますのご発展と、関係者並びに皆様方のさらなるご活躍をご祈念申し上げ、あいさつとさせていただきます。

    桜川市長
    大塚秀喜


  • 藤井匡氏 あいさつ

     ご紹介いただきました藤井匡です。「桜川市市制施⾏ 20 周年記念 ⾬引の⾥と彫刻 2025」の開催おめでとうございます。また、1996 年にはじまったこの展覧会が 30 年を迎えることを重ねてお祝い申し上げます。
     実は、この 30 年間の継続というのは、野外彫刻展の歴史のなかでも稀有なことなのです。1961 年にはじまり、2024 年にギネス世界記録に認定された⼭⼝県宇部市は別としますが、1968 年にはじまった神⼾市の彫刻展は 30 周年となる 1998 年に終了します。1969 年にはじまる箱根彫刻の森の展覧会は、途中から会場を美ヶ原⾼原美術館に移しますが、これは開始から 26 年後の 1995 年に終了します。1951 年に東京都主催、⼩野⽥セメント協賛ではじまったセメント彫刻の野外展は 1973 年に終了しますので、やはり 30 年には届いていません。このように考えると、「⾬引の⾥と彫刻」の歴史的重要性が理解できると思います。
     もちろん、屋内も含めると、もっと⻑く続いている展覧会はたくさんあります。それは、逆にいえば、野外の場合は継続⾃体が難しいことを意味します。その時々の政治や経済の動きを反映するところが⼤きいからです。⽇本全体が好景気に沸き、⾏政の税収も好調だった1980 年代後半には、「彫刻のあるまちづくり」の名のもとに、多くの都市で野外彫刻展が開催されましたが、その動きは 1990 年代前半に終息します。「⾬引の⾥と彫刻」が運営されてきた期間は、⽇本経済のいわゆる「失われた 30 年」にほぼ重なるのです。先に挙げた野外彫刻展が 1950 年代から 1960 年代という戦後の経済成⻑期にはじまったのとは状況が異なりますので、それが 30 年間続いてきたという意味合いもまた異なるのです。「⾬引の⾥と彫刻」は唯⼀無⼆の「彫刻のあるまちづくり」以降の彫刻展と呼ぶことができるように思います。
     この展覧会がはじまった 1990 年代中頃の状況をもう少し考えてみます。この頃、⽇本ではパブリックアートという⾔葉が⼀般化します。実際の事例に即して考えるならば、それらは都市における再開発に関連した動きだったといえます。そのため、「にぎわい」をアピールすることが求められました。それ以前の野外彫刻展では公園が主要な会場になっており、「やすらぎ」や「うるおい」がキーワードだったのとは対照的です。「雨引の⾥と彫刻」はそのどちらとも異なりますので、こうした点も独⾃性と考えることができるでしょう。
     さらに視野を広げて考えてみます。1990 年代は東⻄冷戦の終結期にあたり、世界はグローバル資本主義に⼀元化されます。美術の世界でいえば、それに連動する動きがビエンナーレやトリエンナーレと呼ばれる国際展の急増でした。⽇本のパブリックアートもそうした流れのなかの出来事だったのです。国際的なスターアーティストがサーキットのように世界中をまわるなかで、彼らはそれぞれの都市での作品に、固有の価値があることを証明する必要に迫られますが、その際、開催都市の場の固有性が作品の固有性を保証するように語られたりもしました。
     「⾬引の⾥と彫刻」が⾏われてきたのはそうした時代だったのです。もちろん、この展覧会でも、それぞれの彫刻家は細⼼の注意を払って設置場所を選んでいますが、その選定理由に⼝実のようなものは必要ありません。もっと素朴に、彫刻作品がどのように⾒えるのかを⼤切にしているのです。
     このように作品べースで考えることができたのは、この展覧会が彫刻家の主導で運営されてきたことに由来します。アーティスト主導による野外展はめずらしいものではなく、20世紀後半の⽇本でもさまざまなかたちで実践されました。ただ、それらはそれほど⻑く続くものではなかったのです。では、なぜ「⾬引の⾥と彫刻」では⻑期的な継続が可能だったのか。私はその理由を「彫刻シンポジウムの精神」に求めたいと思います。
     彫刻シンポジウムとは複数の彫刻家が寝⾷をともにしながら、同じ場所で作品を制作する企画を指します。本来的には素材の限定はありませんが、制作場所や使⽤機材の都合から⽯を対象とする場合が多く、1959 年にオーストリアではじまったときも、1963 年に⽇本で最初に⾏われたときも⽯を素材としていました。「⾬引の⾥と彫刻」はシンポジウム形式ではありませんが、この地域が⽩御影⽯の産地だということもあり、⽯彫家が多く参加しています。
     この彫刻シンポジウムも 1980 年代の「彫刻のあるまちづくり」のなかで多く⾏われたものですが、その動きはやはり 1990 年代にほぼ終息します。しかしながら、その精神は別のところにあります。重要なのは彫刻家主導で運営されること、そして、彫刻家のネットワークを通じて展開されることです。その精神は彫刻家同⼠が制作を通じて相互に助け合うこと、議論を通じて相互に理解し合うことにあるのです。私はこの精神がこの展覧会を持続させてきた最⼤の要因だと考えています。この意味でも「⾬引の⾥と彫刻」を「彫刻のあるまちづくり」以降の彫刻展と呼ぶことができると思います。
    とはいえ、その精神が彫刻家のあいだに留まっているだけでは継続は困難なはずです。実際、ここに参加する彫刻家たちは、⾃作の設置場所の交渉などを通じて、その精神を地元の⽅々と共有することを続けてきました。
     本⽇より展覧会がはじまります。展覧会を通じて、地元の⽅々、あるいは、⾒に来られる市外の⽅々とそうした精神の共有が進めば素晴らしいと思いますし、そうなることを期待いたします。ご清聴ありがとうございました。


    藤井匡